最高司令官スディルマン大将のサスミタロカ博物館は、ジョグジャカルタの東ビンタラン通り3番地に有ります。この博物館は、インドネシアの独立時に3年間使用されていたスディルマン将軍の公邸を占めました。然し、博物館の建物は1890年に建てられ、パクアラムVIIの財務責任者で有る Wijnchenk氏の公邸として使用されています。日本の占領中、建物は空けられ、家具は没収されました。インドネシアの独立後、スハルト中佐の大隊の「トゥクル」中隊の本部として使用されました。1945年12月18日から1948年12月19日まで、彼が人民安全保障軍(Tentara Keamanan Rakyat/TKR)の最高司令官に任命された後、それはスディルマン大将の公邸として使用されました。

独立戦争中、第2回オランダ軍の侵略に直面していた時、この建物はオランダ軍のInformatie voor Geheimen Brigade Tの本部として使用されていました。1949年12月27日にインドネシア共和国の主権が認められた後、この建物はジョグジャカルタ市軍事司令部の本部として機能しました。更に、歩兵連隊XIIIと障害者の為の寮として使用されました。1968年6月17日から1982年8月30日まで、陸軍博物館として機能しました。

最高司令官スディルマン大将のサスミタロカ博物館の開所は、1982年8月30日に、インドネシア陸軍参謀長で有るインドネシア国軍ポニマン将軍に依って行われました。サスミタと言う言葉は、「リマインダー」、「心覚え」を意味するジャワ語に由来し、ロカは「場所」を意味します。「サスミタロカ・パングリマ・ベサル・ジェンドラル・スディルマン」とは、最高司令官スディルマン大将の献身、犠牲、闘争を心覚えにする場所を意味します。

スディルマンは、人生の終わりまでインドネシアの独立を守る為に奮闘したインドネシア国家の英雄です。スディルマンは1916年1月24にプルバリンガ郡、バンタルバラング村のレンバン村落で生まれました。大将に成る為の闘いは、ボゴルに有るPETA(郷土防衛義勇軍)オフィサー教育センターでジャワ防衛義勇軍幹部錬成隊の大団長(大隊司令官)としての軍事教育に参加した時に始まりました。その後、彼のキャリアは次第に上昇し、TKRの最高司令官に成りました。

彼らの闘争の最高潮は、第2回オランダ軍事侵略の最中でした。即ち、オランダが当時国の首都として機能していたジョグジャカルタを攻撃した時です。スディルマン大将はこれまで非常に著名な戦争戦略を実行しました。つまり、スディルマン大将を追及する際にオランダ人を圧倒するゲリラ(スペイン語: guerrilla;インドネシア語:gerilya)戦争戦略です。

スディルマン大将が最高司令官に昇進した後、陸軍歴史局はこの博物館を再開して監督し、その名前を「最高司令官スディルマン大将博物館」に変更しました。これまで、本館、右翼、左翼、後翼からなる博物館の建物は、文化遺産の建物に含まれています。

最高司令官スディルマン大将博物館には、最大596点のコレクションが有り、14室のショールームに展示されています。本館に6部屋、右翼、左翼、後翼に他の部屋が有ります。スディルマン大将の公邸で有った本館は、当時の配置に従って配置されていました。

彼の優れたコレクションは、1948年12月22日のセマヌ(Semanu)からベドヨ(Bedoyo)まで(グヌンキドゥル/Gunungkidul)のゲリラ戦争中に最高司令官スディルマン大将と衛兵が使用した輿(乗り物)です。プライェン(Playen)からセマヌ(Semanu)に到着する前、彼のゲリラの旅は、衛兵によって引っ張られて押された荷車に乗っていました。

彼がベドヨに到着した時、周囲の住民達は、プラチマントロ(Prachimantoro)へのゲリラ戦争の旅を続ける為に使用される輿を準備していました。この輿はスモハルジョ夫人(Mrs. Sumoharjo)(ベドヨ)の家に残され、1980年にコレクションの対象としてインドネシア国軍の陸軍(TNI AD)中央博物館に引き渡されました。

最高司令官スディルマン大将のサスミタロカ博物館は、月曜日から日曜日の午前8時~午後3時まで営業しています。国民の祝日は休業と成ります。但し、事前の連絡が有ったら、入場券を使用せずに、訪問者は無料で入場出来ます。

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