通常、モニュメント又は記念碑は地域のシンボルまたは地域の特徴と成る為に建てられました。ジョグジャカルタの主要なアイコンの一つと成るトゥグ・ジョグジャ(Tugu Jogja)も同様です。このトゥグ・ジョグジャは、マンクブミ(Mangkubumi)通り、ジェンドラル・スディルマン(Jendral Sudirman))通り、A.M.サンガジ(A.M. Sangaji)通り、ディポネゴロ(Diponegoro)通りの交差点の真ん中に有ります。 ジョグジャカルタでこれまでに起こった様々な歴史的瞬間の為に、トゥグ・ジョグジャはジョグジャカルタ市の歴史的なアイコンに成ります。

1755年にケラトンジョグジャカルタの建国者で有るハメンクブウォノ1世に依って建てられた記念碑は象徴的な価値を持ち、南海、クラトン・ジョグジャ(王宮)、メラピ山を結ぶイマジナリー線の一つに成っています。スルタンは、瞑想をした後、このトゥグ又は記念碑をメラピ山に面する方向マークとして使用します。

この記念碑は、侵略者と戦う為に社会と主権者(国王)の団結の精神を表「マヌンガリング・カウロ・グスティ」(Manunggaling Kawula Gusti)を明確に描いています。この団結の精神、又は「ゴロング・ギリッグ」(Golong Gilig)と呼ばれる物は、この記念碑の上部に丸い形(ゴロング)と円柱状をした構造(ギリッグ)ではっきりと見る事が出来ます。これが、この記念碑が「トゥグ・ゴロング・ギリッグ」と呼ばれる理由に成ります。

トゥグ・ジョグジャが最初に建てられた時、それは上向きに先細りに成った円筒形の柱の形で、下部は円形のフェンスで、上部は丸い物でした。当初、この記念碑の高さは25メートルでした。しかし、1867年6月10日、地震の為、この記念碑の建設用建物は破壊されました。1889年に記念碑の建設が大きく変わりました。オランダ植民地政府がこの記念碑の建設全体を改修した時、記念碑は四角い形で作られ、この記念碑の改修に携わった人物を示す為に各面に碑文が飾られていました。すると、記念碑の上部は最早丸くは有りませんが、尖った円錐形に成っています。この記念碑の高さも25メートルから15メートルに減少しました。それ以来、この記念碑は、地元の人々と王の間の団結精神を壊すオランダの戦術として、この記念碑は当時De Witte Paal又はトゥグ・パルプティー(Tugu Pal Putih;白い記念碑)と名付けられましたが、その戦術は全く機能しませんでした。

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